民俗芸能を観光資源化してお金を儲けること

京都の町は祇園祭真っ只中です.鉾建てや曳き初めが続々と執り行われています.1,200年以上も昔に疫病を祓うために始まったこの神事も,現在は全国から延約100万人を集める一大イベントとして認識されています.

各山鉾町は手ぬぐいや粽(ちまき)などのグッズを販売し,観光協会が設置している有料観覧席の収益も保存団体の活動に寄付されており,観光客による何億という消費がこの祭の維持に貢献しているといって良いでしょう.広く資金を募るために,最新鋭のサービスであるクラウドファンディングを活用して山鉾連合会が資金調達を行ったというニュースは,記憶に新しいところです.

しかしながら,文化財を利用して闇雲にお金集めに奔ることを良しとしない意見も少なからず存在するようです.文化財の保護を役割とする学芸員文化財を観光資源として活用することを阻んでいる,として揶揄した某大臣が槍玉に挙げられたことも記憶に新しいでしょう.たしかに大臣の表現には問題がありますが,のちにデービッド・アトキンソン氏が擁護しているように発言の意図は的を射ているでしょうし,「文化財を活用していくことに消極的な人たち」の存在が確からしいことが,これをきっかけに世間に共有されたことは怪我の功名といってもよいでしょう.

 

おわら風の盆の事例

とりわけ,経済成長著しい時代を過ごしながら地元の祭を伝承してきた担い手にとっては,祭を見世物にしてお金を稼ぐことは必要に迫られるものでは無かったので,これを卑しい行為として避ける風潮が根強いのではないかと思います.実際,下記のブログ記事では,富山の八尾で受け継がれている「おわら風の盆」を巡って,"自分たちのための文化"と"観光客のためのもてなし"とのはざまで人々の思いが揺れていることが紹介されています.

祭事と見世物の間に - Living, Loving, Thinking

鹿児島市などから来た60~70代の女性グループは「ケータイの時代だし、もっと細かい進路を案内してほしい。見る人に喜んでもらってこその、伝統でしょ」。遠くから高い料金を払って訪れたツアー客には特に不満が多い。

一方、地区をまとめる男性(47)は「自分たちのための伝統だった踊りが、『見せもの』になりつつある。文化を『見せてもらう』という姿勢で来てほしい」と反論する。

 

たとえ誰にも見られていなくてもやり切るプライドは忘れるな

両者の主張を両立させることに加え,地域を維持していかなければならないという条件も加わるということを考えると,これは非常に難しい問題だと思います.これから,地方の観光地のほとんどはこの究極の問題を避けて通れなくなることでしょう.

それくらい重大なテーマなのだから,詳しい人達はとうの昔に議論を深めているようで,ネットサーフィンしてみると20年以上前から論じられていることが確認できました.

俵木 悟(1997)「民俗芸能の実践と文化財保護政策」

この中では,岡山県の民俗芸能である「備中神楽」の観光資源化が批判される要因が以下の通りまとめられています(P52付近)

  • 見世物としての時間的な制約上,本来の演目を短縮せざるをえない
  • 神事としてのストーリーを無視して,派手な演目が選ばれてしまう
  • 未熟な演者であっても,大勢を前にした舞台に出る機会が増える
  • 審美眼を持たない観客による安易な評価に晒されてしまう

とはいえ,こうした問題意識が生まれることで,担い手が自発的に文化を守るためのイベントを作り出すという副作用・相乗効果も期待されるようです(P53付近).諸刃の剣かもしれませんが,こうした葛藤を乗り越えていくことが,自分たちの民俗芸能の本質に迫る助けにはなると割り切るのも,ひとつの考え方といえそうです.

ちなみにこの論文では民俗芸能の(普遍的な)本質についても触れられています.その中でも,見世物との違いを決定付ける要素として挙げられているのは「目的は行うことであり,鑑賞は結果にすぎない」ということです.たとえ観客が一人もいなくても執り行われるのが,"ホンモノ"の民俗芸能とも言えます.

この本質を見失わない範囲で,得られる収入を得て,その範囲で地域を維持していけば,自分たちの文化を蔑ろにすることにはならない,という大前提を明示的に共有することが,地域とその文化を維持していくうえでの大きな一歩になるのではないかと思います.これを曖昧にしたり,「金儲けは粋じゃない」と「稼がないとコミュニティが消失してしまう」という意見をぶつからせて極論に走っても,答えを出せないままいたずらに時が過ぎてしまい,いずれその地域も文化も消滅することになるでしょう.

 

お互いをよく知ることに尽きる

とまぁ概論はこのように整理できるわけですが,これでは個々人の心構えに頼る部分が大きく,持続可能な解決策とはいえません.そこで,なにかシステマチックに問題を解決できる方法を編み出すことこそが,地域の観光を包括的に取り扱うDMOの役割なのであって,知恵の絞りどころ(今回の本題)です.

前置きが長くなったので結論から言うと,民俗芸能を観光資源にして稼ぐための究極解は「サービス・ドミナント・ロジック」に見出すことができます.もう少し分かりやすい言葉で言えば「価値共創」,極端に言うなら「一見さんお断り」です.(経営やマーケティングに詳しい方にとっては,なんら新鮮味のない答えかもしれませんが)

たとえばさきほどの富山の事例で言うなら,道案内が不十分だと文句ばかり言う人に来てもらうよりも,ならばいっそのこと地図を作って他の観光客にも配ることでその観光地の価値を高めようと考えてくれる人を作れば良いのです.

これはただ「客を選べばよい」というわけではありません.自分たちの芸の価値は,自分たちから一方的に発信されているわけではなく,それを評価してくれる相手との関係のもとで決まるという順序で考えることが重要です.そして,そういう客かどうかを見極める,そういう客でなければたどり着けない仕組みとして長らく受け継がれてきたのが紹介制会員制度,いわゆる「一見さんお断り」です.

もちろん,なにもかも紹介制にしなければならないわけではありませんし,現実的には難しいでしょうから,随所でこの考え方を用いて観光客との関係を作れるような企画を考えていくということになります.一方で,残念ながらそこから弾かれることになってしまう人たちの不満が募らないように気をつけなければなりません.誰か紹介すれば割引,みたいな安易な発想も危険です.

結局は,地元も観光客もお互いをよく知るということに尽きるのかもしれません.お祭が無い時期にも来てもらって,じっくりお互いを知る場を設けることができれば,マナー悪く振る舞うようなことは無くなるでしょうし,芸を見せる相手がよく知った人たちであれば見世物に成り下がったと感じることも無くなるでしょう.

まぁそこまでいくと,もはや観光ではなく知人訪問の域に達しているかもしれませんが,観光の究極的な目標ってそういうこと(遠くの人と友達になること)なんでしょうね.

 

余談

地域観光の成果指標としてリピーター率が設定されることがよくありますが,今回の考察を踏まえると,そのリピーターが価値共創に貢献してくれているリピーターなのか,旅行先で知人と呼べる関係の人がいるのか,といったところまで見極めていかないといけないんじゃないかという気がします.

旅行中に現地で仲良くなった相手ができたかどうか,みたいなアンケートしたら面白そうですね.仲良くなるといってもどういう尺度で評価するか難しいし,とくに京都の場合は心を閉ざしたり開いたりの基準が極端な人が多そうなので,まじめに研究したら論文一本かける笑